東京野歩路会の歴史

創立97年を迎え、更に飛躍する東京野歩路会の歴史をご紹介します。

大正11年(1922)10月、東京の下町柳橋で瀬戸物屋の息子が、弱冠20歳で近所の人々と意気投合してつくったのが柳橋山岳会です。初代の代表は本多月光氏で、会員は15名でした。この山岳会が東京野歩路会の前身です。
創立1年で関東大震災に遭い、東京の下町は大変な被害を受けましたが、離散した会員もいち早く集まり、再建に努めました。当時は関西方面の社会人山岳会が盛んで、東京の山岳会は数えるほどしかありませんでした。

創立した年の7月に10人ほどで槍ガ岳に登った際、前後して登っていた団体が神戸野歩路会でした。当時、神戸野歩路会は日本の五大山岳会のひとつに数えられ、会員も300名近くいたそうです。 山に登ろう会、野を歩こう会と書かれた旗を見て感心した本多さんがこの名前を拝借したということです。
その後、このことを神戸に連絡したところ、神戸野歩路会東京支部ということになり、会報にも載ったということです。

関東大震災で会旗もバッジもなくなったため、現在の東京野歩路会の旗とバッジをつくり、現在90年を迎えました。 神戸野歩路会はその後5年ほどで消滅したということですが、東京野歩路会はますます盛んになり、スキー学校の開設、山岳映画の普及、観光バスの前身である団体乗車の開設など、新しい試みを次々と実行してきました。

しかし、戦争によって再び大きな試練を受けることになりました。
戦争が激しくなるといろいろうるさくなるもので、政府から名称が気にくわないから変更するよう圧力がかかりましたが、野山を歩いて心身を鍛える意味としてかどうか、有耶無耶になって結局残ったそうです。
軍人会館(現在の九段会館)が完成し、大ホールで映画会が開催されるようになると、定員オーバーは絶対に認めないなど、憲兵隊の厳しい注文が多くて苦労したそうです。

会員番号は関東大震災と戦争のために2回つくり直しましたが、現在は1万台を大きく上向る番号になっており、本多さんもぴっくりしているのではないでしょうか。
戦後、焼け残った数少ない建物を利用していち早く映画会を開催したことは、娯楽ひとつなかった社会状況の中で大変意義のあることと思いますし、
その中で多くの映画人も育ってきました。
現在は玄人の山岳映画が進出し、金銭的な負担が多い素人の映画づくりが低調になったことは誠に残念ですが、簡単に映画がつくれるビデオカメラも普及してきたので、大型スクリーンで上映できるようになりました。素人には素人の良さが必ずあるものです。

自然保護の問題が最近になって大きな社会問題として取り上げられていますが、この点についても東京野歩路会は創立当時から心を用いてきました。
スキー学校なるものを始めたのも野歩路会ではなかったでしょうか。
昭和初期、草津温泉は下の病を治す温泉として有名で、一般の人はあまり訪れない湯治場でした。 そこへ本多さんが会員を連れてスキーに行き、正月には草津でスキー学校が開かれるのが恒例となり、戦後も長い間続きました。最近は、諸般の事情によって野歩路会の草津スキー学校はなくなりましたが、現在のスキースクールの基となったのではないでしょうか。

これらの歴史の中で、昭和43年2月に創立45周年を機に編集・発行した『費用と案内 山旅300コース』は、会の主旨の集大成であったと思います。
あれから35年の歳月が過ぎ、偉大な創立者である本多月光代表も亡き人となり役員も大幅に変わりましたが、今日まで会創立の主旨は引き継がれてきました。

1992年6月20日に創立70周年記念事業のひとつとして山と渓谷社のご厚意で再び「東京の山百山50コース」を発行することができました。この案内書は身近な東京都内の山を対象にしたもので大方の山行になったものと思考しております。

最近は、中高年の登山やスキーが急増しています。反面事故も急増しているのが現状です。2012年10月の創立90周年を機に、自然保護、安全登山の普及などさらに努力してゆきたいと考えている次第です。

2014年8月           東京野歩路会名誉代表 上島昌之